Hokkaido
(…)着いた六月の札幌は、冷えびえとした空気のなかで淡紫色のライラックの花房が路地や家々の軒下でふるえているような寒さの日々であった。梅雨のないかわりに連日風が吹きまいて街や大通りを白く染めあげていた。僕は自分に固く約束したとおり、毎朝つとめ人のようにカメラを持って街に出た。友人や知人とも会うつもりはなかった。ほとんど三カ月間僕はまったくひとりだった。駅で切符を買ったり喫茶店でコーヒーを注文したり、たまに電話を掛けるぐらいの日常最低限の会話以外はずっと押しだまって暮らしていた。持参の睡眠剤はすぐに切れ、酒も飲まず長い夜をじっと本ばかり読んですごしていた。毎日撮る写真にもうひとつ手ごたえがなく、冷えこむアパートの部屋で離人症と失語症、そして不眠症をかかえ込んで途方にくれていた。つまり、その生活の発想自体がどこか逃避と隔離という甘えと幻想のうえに成り立っていたので、唯一の名分である写真を撮ることの本音がかんたんに建前と逆転してしまったのである。そんなうしろめたさの日々をくり返したのち、夏の終わりとともに帰京することにした。結局なにひとつ事態は進展 しなかったが、あちらこちらと歩くだけは歩いたことの実証として、とりあえず二百五十本の撮影済みフィルムだけは手もとに残った。
― 森山大道(あとがきより抜粋)
- 判型
- 297 × 210 mm
- 頁数
- 72頁
- 製本
- ソフトカバー
- 発行年
- 2022
- 言語
- 英語、日本語