Memoires 1983
写真家・古屋誠一、日本では実に9年ぶりとなる待望の新刊。1978年に結婚し85年に自ら命を絶った妻、クリスティーネの遺した手記が初めて読み解かれた。追憶の中でいつも行き着く83年、その1年間に撮影された古屋の写真とクリスティーネの手記が、厳然とした時系列に沿い緊張感をもって展開される。写真集が作品そのものである古屋の営みには、記憶の向こう側からやってくるものを凝視しようとする眼差しが深く、時間を意識の中に取り込む表現に新たな可能性を提示している。
パリで初めて彼女の手記を読んだ。 迷ったあげく「読めない」手書きドイツ語の手記を清書する決意をした。グラーツの街影もやがて闇の中に消えようとする、年の瀬も迫ったある日の午後、僕は知り合ったばかりの女学生に3冊のノートを手渡した。 1989年以来僕はこれまで6冊の写真集を編んだ。いずれも85年10月、東ベルリンで亡くなった妻、クリスティーネを想いながらつくったものだ。精神に異常をきたし、やがて自殺に至ったのだという平明な解釈では許されない「なにか」がずっとつきまとってきた。世に出た写真集は悲哀の主人公を生み、僕の無能さや、さらに覗き見的悦楽行為を指摘することにもなった。「事件」の当事者の一人であること、そしてそれを編むものでもあらねばならないということへの限界を感じ始めていた。
手記の存在を彼女の亡き後に知ったのだが、それを読むことはなかった。追憶の旅でいつも行きつく1983年、この年は僕の中で混乱し続けてきた。彼女の「異常」な言動が目立ち始め入院に至ったのはこの年の春だった。いま彼女が一年に渡り25回分の手記を残していることを知り得たが、7、8、11月と12月には記録がない。発見できなかった可能性が大きい。この年に150本あまりの35mmフィルムを僕が撮影したことも確認できた。 「事件」の残響から逃れるようにグラーツを発ってから2ヶ月が過ぎようとしていた。床一面に並べたコンタクトプリントを行き来する日々だった。タイプ打ちされた清書に赤い点線と疑問符、女学生も解読出来なかった部分だ。僕はまだ読みつづけた。ゆっくり、一字一句ゆっくりと追いながら日本語に訳していった。 3月末パリを去る頃、1983年に綴られた彼女の手記と僕の写真とで1冊の本を編んでみようと決意した。
古屋誠一/2006年6月/グラーツにて
- 判型
- 228 × 193 mm
- 頁数
- 312頁
- 製本
- 並製
- アートディレクション
- 古屋誠一
- 発行年
- 2006