見続ける涯に火が… 批評集成1965-1977
「思考が視覚を批判し、視覚が思考を試練にかける。中平卓馬の遺した仕事に見られるそのような葛藤の痕跡は、ゴダールの仕事に勝るとも劣らぬ強度で今もわれわれを圧倒する。遺した? いや、写真家は、記憶の大半を失い、書くことをやめた後も、日々撮影を続け思考を続けている。その姿はわれわれに究極の真理を教えるだろう。脳ではない、眼が思考するのだ。だが、そのような境地を垣間見るためにも、まずは、彼が脱ぎ捨てた、しかし今も生気に溢れる過去の思考の殻を、われわれの「灰色の脳細胞」でつぶさに検討するところから始めなければならない」
― 浅田彰
1960年代後半から70年代にかけて、従来の映像美学を覆すラディカルな作品によって日本の現代写真に大きな転換をもたらした写真家、中平卓馬は、同時にきわめて鋭敏な批評家として芸術と社会のあり方を根底から問いなおし、激動する時代に応答しつづけていた。本書はいまなおアクチュアルな輝きを失わないその思考の運動を現在の世界へと召喚し、年代順にその軌跡を辿ることを通して、今日における写真表現の可能性を再考するアンソロジーである。中平は77年に病に倒れて記憶の大半を失った後も、写真家としての活動を継続することによって立ち直り、撮影行為を通した自己解体と再生を繰り返しながら写真のもつ根源的な力を模索しつづけている。その特異な写真作品にアプローチする手掛かりとして、また広く現代社会をとりまく問題について考察し、芸術表現のゆくえを問うためにも必読の一冊である。
目次
I 同時代的であるとはなにか 1965-1970
映像は論理である──東松照明とグラフジャーナリズムの現在
不動の視点の崩壊──ウィリアム・クライン『ニューヨーク』からの発想
狂気の美学のパラドクス──細江英公写真展「とてつもなく悲劇的な喜劇」
写真にとって表現とは何か──「写真一〇〇年 日本人による写真表現の歴史」展
物質的基盤を失った言葉──写真展の流行とその背景
編集後記──『プロヴォーク』一号
リアリティ復権
証拠物件
同時代的であるとはなにか?
言葉を支える沈黙
物の影の底にあるもの
II イメージからの脱出 1970-1971
写真は言葉を挑発しえたか
映画はすべてドキュメンタリーである
グラフィズム幻想論
風景への叛乱──見続ける涯に火が
血ではなく、赤い絵の具です──ジャン=リュック・ゴダール『中国女』
作品は現実の一部である──ジャン=リュック・ゴダール『東風』
作品の背後になんかゴダールはいるはずもない
映像の匿名性と党派性──ジャン=リュック・ゴダール『イタリアにおける闘争』
イメージからの脱出
日付と場所からの発想
III 記録という幻影 1971-1973
モロッコ、絵はがきの風景
現代芸術の疲弊──第七回パリ青年ビエンナーレに参加して
写真、一日限りのアクチュアリティ
制度としての視角からの逸脱は可能か
日本の現実を凝視する視線の両義性──東松照明『I am a king』
記録という幻影──ドキュメントからモニュメントへ
複製時代の「表現」とはなにか──「マッド・アマノ=白川義員裁判」をめぐって
日本的なるものとジャーナリズム的なるもの
写真家いかに食うか、食うべきか──まずみずからをエピソードと化せ!
IV なぜ、植物図鑑か 1973-1975
なぜ、植物図鑑か
近況──それからそれから波高し
まったくのゆきあたりばったり──私の読書
ユジェーヌ・アッジェ──都市への視線あるいは都市からの視線
客観性という悪しき幻想──松永優事件を考える
とりあえずは肉眼レフで
わが肉眼レフ──一九七四・沖縄・夏
なにげない視線、やわらかな息づかい──『木村伊兵衛写真集 パリ』
写真による写真批評──篠山紀信『晴れた日』
沈黙の中にうずくまる事物──ウォーカー・エバンズにふれて
歴史への意志──シュルレアリスムの潜在的な力
「第三世界」と世紀末の映像
V 視線のつきる涯 1976-1977
奄美──波と墓と花、そして太陽
身振りとしての映像──ブレボケは様式ではなかった
旅を拒みE線上のアリアを唄おう
視線のつきる涯
個の解体・個性の超克
篠山紀信論
街路
先制の一撃──見ることと読むこと
インターリュード
- 判型
- 188 x 127 mm
- 頁数
- 512頁
- 製本
- ハードカバー
- 発行年
- 2007
- ISBN
- 978-4-9901239-4-9