台湾の写真家。旧名は鄧騰輝。
北埔公学校(現在の北埔小学校)を卒業後、1924年(大正13年)に日本へ留学。1929年(昭和4年)、法政大学経済学部に入学し、卒業後の1935年に帰国。大学時代は写真部の合同展に参加し、同級生や友人をモデルに人物写真を多く撮影した。また、栄華を極めた銀座界隈の街並みも撮影しようとした。1932年、雑誌『CAMARA』の巻頭のインタリオ・ページに『酒場の女人』が初めて掲載される。1934年、第1回上海国際写真展に参加し、「The sketch of the seachast(海濱的速寫)」で10等級4位に選ばれる。写真評論家の冉江紅が編集した『月刊ライカ』(萊卡月刊)に多くの作品が掲載された。

留学中、日本の「新写真運動」の影響を受け、都会の女の子への観察眼が鋭くなり、心に響いたものをスナップショットで切り取ることができるようになった。この時期の代表的な作品は、「風景写真を見る女」(觀賞風景照的仕女)、「郵便箱と子供」(郵筒與小孩)、「現代の女」(摩登仕女)など。台湾に戻ってからは、台北京町(現在の博愛路)に「南港似顔絵機店」という店を開いた。商売の傍ら、写真撮影も続けていた。台北の街を行き交う女性たちのために、彼はリズムを刻む女性ポートレート・シリーズで明るいトーンを残し、1930年代後半の台湾における写実的な土着写真の潮流を切り開き、写真を使って実際の出来事を記録する重要な先駆者となった。例えば、故郷の北埔の周辺を背景にして、伯牙の市や町の伝統的な生活文化を記録し、一族の彫像、祝日や祭り、冠婚葬祭、神々を讃える街頭パレード、市場の風景などの行事を撮影した。代表的な作品は、峨眉掛紙、還山、平安戲などである。

鄧南光は、台北市で戦争の始まりと終わりを記録した数少ない写真家だった。連合軍機撃墜の瞬間(盟軍飛機被擊落一剎那)、 廃墟でレンガを拾う(廢墟中撿拾磚瓦)、路上で家財を売る日本人(日人在街頭販售家當)。1950年代に完成した『酒場の文化』シリーズは、鄧南光の記念碑的作品であり、自己の生活感溢れる物語であった。荒涼とした中年男と、物わかりがよく賢明な酒場の女友達が真摯に見つめ合う姿を描いたこのシリーズは、鄧南光の作品の粋を集めたものである。鄧南光は、戦後の写真ブームを盛り上げる活動の重要なリーダーの一人であった。台湾における「中国写真協会」の活動再開に参加したほか、張蔡、李明彪(いわゆる「台北の写真三銃士」)とともに「台北月例写真コンテスト」の長期スポンサー兼審査員を務めた。

1953年にも「奔放写真展」を開催し、1963年には「台湾省写真協会」を発足させた。2007年8月、台北市立美術館は「鄧南光100歳記念展」を開催し、写真家の張昭堂は「鄧南光の生涯を見ると、カメラが彼の目であり、ペンであったようだ」と指摘した。