丹平写真倶楽部は、浪華写真倶楽部所属の写真家たちにより、1930年(昭和5年)に設立され、丹平製薬が1924年(大正13年)に大阪、心斎橋に建設した「丹平ハウス」に事務局を置いていた。丹平ハウスは、地上三階、地下一階の鉄筋コンクリートで、薬局の他に、カフェ、写真材料部、赤松麟作が指導する洋画研究所、写真スタジオ、暗室や展示会場などを備えた文化拠点であった。

倶楽部の中心になったのは、上田備山、安井仲治の両者で、浪華写真倶楽部にも所属していた。他に両倶楽部に属していたのは平井輝七、本庄光郎等。浪華と丹平は兄弟クラブであると理解されていた。毎月例会が開かれ、半切から大四切サイズぐらいのプリントが持ち寄られ、作家名が伏せられた状態で合評がなされたという。

その後、1934年(昭和9年)に音納捨三、翌年には椎原治、河野徹等が会員になる。前衛写真色が強い平井と本庄は、1937年(昭和12年)に結成されたアヴァンギャルド・造影集団の会員でもあった。丹平写真倶楽部は当初から実験的表現を中核に据えており、フォトグラムやフォトモンタージュ等の技法や、シュルレアリスムに影響されたような造形表現も会員の作品の中に多くみられた。

丹平は地元大阪での定期展覧会に加え、東京でも巡回展を開催し、倶楽部の前衛指向を強く印象づけた。

当時は、新興写真の時期を経て前衛写真の運動が勃興しようとしていた。ドイツでモホリ=ナジが企画した当時の実験的な映像と写真作品を集めた「Film und Foto」展の写真部門が、1931年に「独逸国際移動写真展」と題されて日本でも開催され、東京、大阪に巡回した。バウハウスやロシア構成主義の作家や、ダダイスト、シュルレアリストたちの実験的な技法を用いた写真作品が多数展示された。また、1937年には、瀧口修造が企画した「海外超現実主義作品展」が大阪にも巡回し、エルンスト、ダリ、ベルメールやマン・レイなど本場のシュルレアリスム作家の作品(一部複写)が、一堂に展示された。このような展覧会も、日本の新興写真、前衛写真運動の隆盛に影響を与えたと言われている。

丹平設立と同年に中山岩太を中心に芦屋カメラクラブが、東京では木村専一を中心に新興写真研究会が設立された。1938年には前衛写真協会(東京)、その翌年には、ソシエテ・イルフ(福岡)とナゴヤ・フォトアバンガルド(名古屋)が設立される。このように、全国各地で新興写真や前衛写真を標榜する集団が誕生したのが1930年代であった。

1940年(昭和15年)、創立十周年の折に写真集『光』を出版。この写真集には、1935年(昭和10年)から1939年(昭和14年)までに丹平の定期展覧会である「丹平展」に出展された作品から58名による111点が選ばれ、収録された。

1942年(昭和17年)、安井仲治が逝去し、戦時中倶楽部の活動は休眠にはいった。

丹平写真倶楽部の書籍